orangeribbon

日本聖公会 京都教区における 児童への性的虐待事件

被害者側代理人 公式ページ

http://www.m-fumio.com/

司祭による児童虐待事件の速やかな解決を!



教会特有の問題について

 

この事件に関わっていると、教会特有の問題というものも見えてきます。



1. 偽善の問題

イエス・キリストは罪人を招かれたのですが、悔い改めない人と、偽善者は裁かれます。
裁判で、原田文雄はどのように主張したでしょう。酷いことを言っています。
上層部の古賀久幸と一緒になって被害者攻撃をやりました。
教会が聖職の罪を隠す場合は、単独でやるのではなく、皆で被害者を押さえつけ、包囲します。
罪を認めず誤魔化すということは、罪に罪を重ねることです。
偽善の恐ろしさはよく理解せねばなりません。

ダビデ王は、姦淫を隠すために、殺人を犯しました。(サムエル記下11章)
ヘロデ・アンティパスも、不法な再婚を非難していた洗礼者ヨハネを殺しました。(マタイ福音書14章)
もとは結婚の問題なのが、殺人に発展したのです。
わが聖公会の設立者、ヘンリー8世は離婚したと言われないために、妻を反逆罪で殺しました。
偽善というのは覆い隠すために罪を重ねることです。
イエス・キリストはファリサイ派の人たちを「偽善者」と言って非難しました。(マタイ福音書23章)
ファリサイ派は現在は存在しませんが、「偽善者」はいつの時代もいます。
特に、教会のような善人の集まるところには沢山、繁殖するのです。
倫理をうるさく言わない環境では、人は悪行を隠しません。堂々と、罪を犯します。
しかし、教会ではどうでしょうか? 教会という共同体は偽善の繁殖しやすい環境なのです。
2000年前の熱心なユダヤ教もそうでした。
先生と呼ばれる人は、非常に大きな誘惑を受けます。模範を求められる立場なので、正直でない時や、無理をしていることがあります。(演技=偽善)
そして自分の弱さを認めず、完璧であろうとする人は非常に危うい。
罪を認めれば社会的な評価は最低になり、権威ある立場から、真っ逆さまに地の底まで落とされるからです。
聖職が偽善に陥る危険を理解し、自戒せねばなりません。人間は誰でも罪人であることを、自分から認めなければなりません。
正しいのは、神お一人です。(マタイ福音書19:17)
自分が罪人であることを認めず、権威に頼って誤魔化そうとする聖職はキリストに裁かれます。(マタイ福音書23:27)
悪いことは隠し通せるものではないという警告も心に留めて、偽善を捨て(マタイ10:26)、隠れたところを見ておられる神を恐れなければならない。
聖職個人の罪の露見が、教会の崩壊につながると考える人も多い。
リーダーシップが強く、自分が教会を支えていると自負している人は特にそのように考えます。
しかし教会共同体が聖職の罪を隠すなら、もっと重い罰が待ち受けています。
個人が犯した罪に加えて、教会共同体全体が、被害者に罪を重ねることになるからです。
教会共同体として自己正当化をする場合、それは単に罪ではなく、背信となります。
人間の目にだけ良く見えようとして、「神はいない、見ていない」と侮っているからです。(詩篇94:7)
聖職が神の前に正直になり、罪を潔く認める姿勢を示し、偽善を捨てようと決心しない限り、隠ぺいは再び起きるでしょう。
例えば今の京都教区はいまだに事件対応に関する事実を認められず、偽善から離れられない。必ず再発します。
しかし人間が真の悔い改めに至るのは難しいことなのではないかと考えている。

2. 「裁いてはならない」という言葉

聖職が罪を犯す場合、信者は恩のある人を守ったり、弁護しようとします。
キリスト教会の場合、批判勢力を黙らせる常套句があります。
マタイ福音書 7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」
この言葉は信者でない人にも、よく知られています。寛容であれというのは他の宗教にも見られる言葉ですが、マタイのこの聖句の意味するところは少し違います。

注意すべき点ですが、上記の言葉は未熟な人に向けられた言葉であるということです。
成熟したクリスチャンはすべてのことを判断し、裁き、裁定できるようになるからです。(第1コリント6:2)
しかし、未熟だと自覚があるのなら、他人をどうこう言うのは控えて、良く自省することから始めなければなりません。
他人を非難すると自分が偉くなったり、進歩したような気がします。
欠点のない人間などいないので、他人を非難しようと思えば誰でも非難できます。
悪いニュースで問題になっている人を裁けば、スグに偉くなった気分になれます。
しかし実際は、自分が進歩したわけではない。自分の弱点を知ることは難しいものですが、自分をよく省みることができる人は自分を整えることができ、未来があります。(箴言21:29)
この聖句は自分に向けて語りましょう。
他人に向かって「裁くな」と教える人は、この聖句の意味を理解していません。
神の恵みを受けて、自ら進歩したいという人のために、この聖句はあるのです。
心の貧しい人は幸い。(マタイ5:3)
自分の貧しさと弱さを知っている人、謙遜な人をキリストは祝福してくださいます。


3. 聖職だからこそ、厳しく裁かれる  (ヤコブの手紙 3:1)

聖職はクリスチャンとしての模範を求められています。
聖職が悪事を行えばキリストの名を汚します。
信者は問題の聖職を見て、「あのように振る舞っても良いんだ」と誤解し、道を誤ることになります。
信者でない人は、そのような聖職が堂々とまかり通っていたら、それがキリスト教の本来の姿だと思うことでしょう。

だから、純粋な若い人たち、子どもたち(マタイ福音書18:6)、キリスト教を知らない人たちを悪い模範でつまづかせて、神への疑念を持たせ、人間不信に陥らせたり、良心の磨かれていない未熟な人を誤った道に進ませるような、他人をつまずかせる悪い模範は断固裁くべきであると、教えられています。

「つまずきをもたらす者は不幸である」(マタイ18:7)
主イエス・キリストは、このように言っています。
マタイ18:9 「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
 両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
悪い聖職をキリストの体から切り落とせ、と言っているのです。
パウロもこう言っています。
第1コリント5:2  「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。
 むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。」
聖職ではなくても、堂々と悪いことを行って恥じない人、つまり悪い模範になっている人は教会から排除すべきだと言っています。


4. キリストが与えられた、「赦さない権威」

キリストは罪の赦しを宣言されました。しかし、何でもかんでも無条件で赦すと言われたのではありません。
そのように勘違いしている人が多いので、伝統的教派の考え方や実践方法も知っておかれるとよいでしょう。
罪の自覚のある人は聖職を通して、神に罪の告白を行います。(個人懺悔、告解のサクラメント)
聖職から罪の償いの方法が示された後、赦しの宣言を受けます。
上記の偽善の項目で説明したように、取り繕って罪を認めない人は赦されません。
裁判で偽証した場合、秘密の告解では赦されません。公けに偽証を取り消さねば、赦されることはない。
公けの発言で他人を陥れておいて、コソコソ赦しをもらったら、告解のサクラメントを悪用することになるからです。
悔い改めが不十分であるとか、償いのできない場合、聖職は「赦しの宣言の延期」という形で、赦されないことを示します。

キリストは使徒たちに、赦す権威と、赦さない権威を与えられました。(ヨハネ20:23)
罪人の魂を導くための権威です。
罪人の心を調べ、償いと和解の方法を示し、(聖公会祈祷書298ページ)
真の悔い改めに至った者に赦しの宣言を与える権威です。
罪人の教育のために、告解という聖奠が設けられたのです。
このサクラメントにおいて、赦さないというのは、相手の欠点に怒ることではありません。
あなたは神の子ではない、他者の尊厳を理解していないと言い渡すことです。
そして使徒の権限を継いでいる人が、天国の門の扉を閉じます。(マタイ16:19)

5. 礼拝に出る前に、和解せよ

祈れば神が特別に大目に見てくれると考える人がいますが、それは誤りです。
神にとっては、どんな人間も大事なわが子であるから、隣人をおろそかにする者は神の前に出てはならない。
他人の子供を傷つけておいて、謝りもせずに親の前に出るのと同じです。

キリストは大きな争いとなる前に、裁判となる前に、自分から過ちに気付き、加えた害を償い、赦しを乞うように教えられました。(マタイ5:23)
しかし被害者の痛みを無視して怒りに火を注ぎ、裁判になったのであれば、他者の尊厳を軽んずる者は神に裁かれ、償いをさせられることになるでしょう。
キリスト御自身も、そのような者は牢獄に入っていればよいと言われた。

「はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、
決してそこから出ることはできない。」
(マタイ福音書 5:26)


前へ ページ先頭へ 次へ